昭和48年01月23日 朝の御理解



 御神訓 一、「神の恵みを人知らず 親の心を子知らず。」

 神様のお恵みが、本当に分かる所から、神恩報謝の心も湧いて来る。所謂神恩報謝の心をもって真の道を、愈々進ませて頂く事が出来る。親の心を子知らずと。親の心が分かれば、親に心配をかけたり親不孝したりはとても出来ません。矢張り孝子と言われる人は、親の心を知った人達だと。親の思いが分かる人達、本当に分かる人達だと思います。昨日一昨日が南八幡教会の青年会と、合楽の青年会合同で、平田氏を迎えての信心研修会がございました。それから昨日は筑水信徒会がここで持たれました。
 久原教会の阿倍先生が見えられました。本当に段々合楽教会がお役に立たせて頂いておる。来月はまた青年教師会が、一泊信心実習をここでしたいからと言う願い出が来ております。折角こうやってお広前、また会堂もあのように出来たのですから。やはり十分にお使いまわしを頂くという事が、有り難いと思います。本当にお使いまわしを頂く事が有り難いという事。私はこれはいわゆる神様のお心が、段々分かってこなければ、有り難いという事は分からないと思う。
 段々神様のおかげいうなら神様のお恵によって、こうして出来たのですから。それを沢山の人に使うて頂くと言う事は有り難いと言う。いうならば神恩報謝の心がそう言う事になるのです。昨日の会合で筑水信徒会の会長をしておられます、播磨さんと言う久留米の総代さんが一番初めに挨拶をなさっておりました。その挨拶の中に中々良い事を言われるなと思うて、聞いた事があります。おかげは世界中の氏子にやってあると、教祖様は教えられるが信心の基本になる所、世界中の氏子にやってあると言う。
 これは信心していてもいなくても、みんなが一様に頂いておる、おかげというものを分からせて頂くという事が、信心の基本だという意味なんです。それを私共が知らない間はです、おかげをおかげと知らず、いわゆる親を親と知らない訳。親がおっても親がおるやら無いやらすら知らない。天地の親神様が、信心が有ろうが無かろうが、下さっておるところのおかげを、おかげと感知させて貰う、体認させて貰う。
 そこからいわばお礼心が信心になる時そこから又限り無く、是は信心しておらなければ頂けないというおかげ。いや信者氏子と呼びかけて下さる、神様のお心が分かるほどしのおかげ。なるほど信心頂いておるおかげでというおかげは、それから先なんだけれどもです。そういうおかげだけを、おかげと言うのでなくて、世界中の氏子に信心が有っても無かっても下さってある、そのおかげを知る事が、信心の基本だという意味の事を、挨拶に述べておられます。
 ところがその実その事をおかげと分からせて貰う。いわゆる神恩が分かると言う事の先にはね、報謝の心が無かったら、それは分かっても分からなくても同じ事。親の心が分かっても知っちゃおるけれども、親孝行しないなら知っておっても知らなくても同じでしょう。もう親の心は分かっとるけれども。それには添おうとしないならそれは同じ事。やはり神の恵みを知ると言う事は、お願いをして頂くおかげと言う。
 そのまぁ一つ向こうにです。世界中の氏子におかげがやってあると言うおかげを分からせて頂くという事が、基本だと言うのです。中々挨拶にそうして言うたり、又成る程と聞き乍ら、思うたりするところ迄は、言いもすりゃ成る程と思いますけれども。それを実感としてです、おかげをおかげとして、分からせて貰うという事は、愈々信心を深う又は、広う頂いていかなければ分かる事ではない。神恩報謝の心が自ずと備わってきて、その神恩報謝に対する、報謝の生活。それを真の信心生活だと私は思います。
 そこで私は思うのですけれども。それを本当に実感としてです、一つの天地のご恩恵に浴しておる事が感動ともなって、こちらに伝わって来るほどしのおかげです。私は子供の言う事を聞かんとか、親不幸するとか言う特に子供に対する所の親の願いを、ここで聞かせて貰う時に必ず申します事は、親の心が分からんから親に背くのですから。どうぞ子供に親の心を分からせて下さいという願いをする前に、どうぞ神様親神様の思いを私に、もっともっと分からせて下さいと願いなさい。
 親神様の思いが分かったらそこからです、親神様に対する所のお礼も、所謂神恩報謝の信心が出来てない事に気づかせて頂いて、子供の段じゃない親自身が、分かってなかった事が分からせて貰うて、そこから子供がお繰り合わせを頂いて、おかげを受けると言う事。昨日の先生のお話を頂いて、一番最後にここの教会長先生のご挨拶をお願いしますと言う事で、五分間ぐらいよかですか。三分ぐらいにして下さいと言うから、ほんなら三分間の挨拶をさせて貰おうと言うて、させて頂いた事でしたけれど。
 昨日は青少年の育成という事についてのお話でございました。それで例えばよく子供を教会に参らせる。言わばマルショウに入れて貰うた。いうなら教会に預けておるという事は、もう親もこれで安心と言うて、安心をしておる親があるけれども、それはあまりにも無責任だと言うお話がありました。もうそ通りですね。そこで私はそのもう一つ向こうの事を話した積りだったが、分かったか分からなかったか知らないけれど。
 私は例えば信者を育てるという事を、こう言われるけれども。これを例えば私好みにでも、育てようと思うたら大間違い。いうならば大坪流と言うか、私好みに信者を育てようとは思わない。いやそういう時代も有った。けれどもそれは失敗に終わった。ですから最近はどこ迄も、神様好みの信者氏子に、お取立て下さいと願うより他にない。私好みと言ったら結局私が持っておるものだけしか与えられない。
 神様はそんな小さい方じゃない。もっともっと大きい。思いもかけない人が、素晴らしい信心に進んで行かれるというケースが、合楽ではいくらも有る。私好みではない。けれども師匠の信心と言うか、親の信心と言うかその信心を、こうして習うて行くうちにです。いつの間にか親に対する所の憧念心が生まれてきて、もう言う事は親先生の言いよんなさるごたる事を言うという様に育っていくと言う。これは又別なんだ。
 例えば秋永先生あたりの話を聞きよると、私が話しとるとじゃろうかと思う位に、錯覚するごたる時があるです。これは先生の場合は、私好みにどんどん育っていきよるということです。それは私が育てたのじゃない、親に対する信心の一つの憧念の心が、いつの間にか話す内容だけではない、話振りまでが同じようになって来る、親に似て来るという事だ。だから初めから、親の思い通りに育てようなんて言うその心が間違い。これはそんなら、私の方の子供逹の場合を言うても同じ事。
 一人一人の子供逹がそれぞれの、やはり兄弟だからと言うて決して同じじゃない、それぞれに違う。それを例えば私流に同じに育てようと言うても出来ん。結局おかげを頂くという事は、私共の願いとか思いとか以上の、おかげになって行く時にそれを本当のおかげだと私は思うです。自分の思うようになりましたてんなんてん言う事は、それは可笑しい。そこで例えば親から見れば、目に余るような事も有るけれどもです。そこをそんなら、神様どうぞ私には神様の思いを分からせて下さい。
 子供には親の思いを分からせて下さいと言う様な内容の信心。いうならば子供の為に、私が修行をするという信心にならせて頂いたらです。神様は私共の願い思い以上に、子供をお育て下さるという事実がある。そこの所を分からせて頂いたらです。成る程子供を教会に預けとけば安心てんなんてん言うておる親は、無責任だ。事実まぁそうだと思うけれども、それをもう一つとても、私達の願いとか思いとか通りにどもなる。
 子供が例えば高校の試験なら試験が始まると、お参りしよる子供でもです、もう試験が始まって勉強せんならんけん、教会参りは今までのごとはいかんばい、勉強の方に力ば入れにゃと言うて、言う様な親があるという話しも出ておった。神様の思いというものを、分からないからそういう事を言う。ですからそういうところをです、神様のお働きを信じ、分からせて頂いていうならば、放任神様任せという心です。神様にお任せをしておるという事がそのまま教会に、お任せしておるという事になるならばです。
 そこからね神秘の門が開かれると。教会と言う所は不思議な不思議な所だ。という意味の話をそれこそ、三分間ですからそんな話をさせて頂いたんですけれどもね。私好みに育てようとは思はない。どこ迄も神様好みに育てたいと思う。その為にはです神様の思いを、愈々分からせて貰うと言うか為に、修行しなければならない。子供が本当に神様好みに育つ事の為にです親の私自身が、修行を致しますからという、この姿勢だけは崩されません。ただ神様が育てて下さるとじゃから、ええように育てて下さろうと。
 これではやはり無責任であるという訳です。私は段々いうならば、離れ業のような感じがいたします。いうなら試験に間近かという子供が、教会マルショウの御用だと言うて出ていく。親としては本当にそれは、勇気のいる事であります。けれどもそこを一辺通らせて頂いて、おかげを受けて初めてです。不思議な世界というものを見る事が出来る。いうならば肉眼をおいて心眼を開く事が出来る。そういう心眼を開いていくと言う様な意味においての信心が出来ない限り。
 例えて言うと医者の薬を飲んで治療を受けると。神様にお願いをして、おかげを頂くと。けれども本当の事が分かるという事になると、もう神様に一心にお縋りして、おかげを頂くという事になる。そこにはとても現代の医学では、及びもつかない様な働きというものが頂ける。そこには矢張り一つの勇気が要る。その向こうにこの体は天地の神様がお作りになったんだなぁという事が体験出来る。
 そこへ微か乍らも人間の肉眼から、心の目が開けて来るところのおかげになって来る。その心の目が開けて来るおかげを頂かずしてです。いかに話を聞いて分かる、神の恵みをいかに聞いてもです。実感としてです神の恵みを恵として受けられる。神の恵みに対するところの、報謝の心というのは、なおさら分からない。神の恵みが分かるところから、本当の神恩報謝の信心生活が出来る。
 天地の親神様は、そこんところがです、神の心を人知らず。これはいうなら、神様の悲しみである。それを私共が分からせて頂いて、それにお応え申し上げるところの信心。親の心が、本当に分かった、親の真意が分かった。そこから初めて親の心に添うという生き方が出来る。そういう人を孝子という様に私共は、天地の親神様のです。いうなら、真の氏子とでも申しましょうか。
 本当に親神様と私共との間にです、なんのこだわりもへだたりも無い。親の事は子が頼み、子の事は親が頼みとか、親のものは子のもん、子のものは親のもんといった様な、自由無碍な世界が、そこから開けて来ると思うのです。どうぞ神様の恵みを人知らず。神様の恵みを分かる。それは話を聞いただけでも、一通りは分かるけれども、それを実感として、報謝の生活に表していくという所に、信心修行がいる訳ですね。
   どうぞ。